どこにでもいるSEの備忘録

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「仮説を安易に設定していないか?」という自問自答

最近ふと、

「仮説」を安易に設定していないか?

と自問自答することがありました。

この手のふりかえりは反省やら罪悪感やらが湧いてきてあまり気持ちの良いものではないのですが、書き始めてしまったので書いてしまおうと思います。 今日はちょっとこれについて書いていこうと思います。

仮説を安易に設定していないか

サラリーマンをやっていると多かれ少なかれこんな言葉を耳にすることがあります。

  • 「〇〇だと思ってるんですよ。まだ仮説ですが〜」
  • 「この仮説をもとに課題の検討を進めていきましょう〜」

ビジネスパーソンであれば、新卒くらいのタイミングで「仮説思考」というものを耳にした方もいると思いますが、それが実際に体現されているわけですね。 個人的に、これについてちょっと気になったことを考えていきます。

仮説思考とはなにか?

仕事をしていてこれだけ「仮説」という言葉を耳にするのは、おそらく仮説思考という考え方がビジネスの現場に浸透しているからでしょう。

ビジネスパーソンは日々、問題解決を迫られている。そのとき、あらゆるケースをすべて調べまくってから答えを出すのは時間的にも資源的にも無理だ。仮説思考は、すべてのビジネスパーソンにとって重要なスキルといえる。限られた時間、少ない情報でベストな解を探すことができれば、ビジネスでの成功確率は確実に高まるはずだ。 内田 和成. 仮説思考―BCG流 問題発見・解決の発想法 内田和成の思考 (p.16). 東洋経済新報社. Kindle 版

では仮説思考がなんだったか?『仮説思考―BCG流 問題発見・解決の発想法 内田和成の思考』から引用してみます。

仮説思考とは、物事を答えから考えることだ。ベストな解を最短で探す方法ともいえる。 『内田 和成. 仮説思考―BCG流 問題発見・解決の発想法 内田和成の思考 (p.15). 東洋経済新報社. Kindle 版』より引用

何らかの問題が発生し、それを解決しようとするときに答えから考えることが仮説思考と呼ばれる思考法なわけですね。 よく言われる具体例としては、あれこれ調べてから「結局答えって何だったかな?」という流れで進めるのではなく、「きっとこうだろう」という仮説を立て、その検証を進めることで問題解決に向けた無駄な作業をなくしていくことにつながるわけです。

そもそも仮説ってなんだっけ?

そもそも仮説とは何なんでしょうか? これについては名著にも書かれているのでそちらを引用して紹介したいと思います。

仮説とは読んで字のごとく「仮の説」であり、われわれコンサルタントの世界では、「まだ証明はしていないが、最も答えに近いと思われる答え」である。 『内田 和成. 仮説思考―BCG流 問題発見・解決の発想法 内田和成の思考 (p.11). 東洋経済新報社. Kindle 版』より引用

ここで言う仮説とはまだ検証してないものの「最も答えに近いと思われる答え」なんですよね。

要するに、

  • 思いつきで出てきたアイデア
  • 特に選択肢ごとに比較検討されていない選択肢の数々

といった、ありがちな仮説らしきものはここでいう「仮説」には該当しないわけです。 (未検証であるという点はどれも同じですが)

とはいえ、仮説は仮説であって答えではない

とはいえ、どこまで行っても仮説であって、答えではありません。

不確定要素が残るなかで現状考えられうる尤もらしい結論というだけで、考える人次第で仮説が変わってしまったりもするのは当然です。 ときには対して吟味されていない、思いつきで出したアイデアが結果として正しかった、なんてこともあると思います。

仮説というものはそんな答えのないゲームの一部分なんだということは同時に理解しないといけません。

仮説を導くプロセスがないがしろにされていないか?

このように仮説の立て方は人それぞれで定石はない。仮説構築にはさまざまな方法がある。 「内田 和成. 仮説思考―BCG流 問題発見・解決の発想法 内田和成の思考 (p.82). 東洋経済新報社. Kindle 版. 」より引用

言われてみれば、良いアイデアは何の前触れもなく降ってくると感じている方も多いと思います。 決まった方法があるわけではないので、どうやって仮説を思いつくかという方法論は人それぞれ好きにやれば良いんだと思います。

個人的に気になってしまうのは、この仮説にたどり着くまでのプロセスがないがしろにされていないか?という点です。

よくわからない人が5秒考えて作った仮説と、その道の専門家が十分に時間をかけて考えたものが「答えがわからないから等価」ということにはならなさそうです。

個人的に思う仮説というのは、

  1. 無数に存在するであろう情報の中から取捨選択を行いながら問題の論理構造を組み立て
  2. 可能な範囲で手に入れられる情報・ファクトを集め
  3. 大量に発生するアイデアの中から、ときには消去法で選択肢を排除し
  4. 当初のアイデアでは都合の悪い部分を修正・ブラッシュアップし
  5. 最後に残ったその人が魂こめて考えた「まだ証明はしていないが、最も答えに近いと思われる答え」

であるべきではないか?と思ってしまうわけです。(個人的には)

適当にとりあえず設定した仮説と、十分に考えて導かれた仮説では、同じ仮説でも価値が異なるのではないかという気がしています。 そして、充分に思考するというプロセスがすっ飛ばされた仮説を安易に作ってしまっているのであれば、それはその人が本来出すべき付加価値を「速さ」という免罪符を盾に、蔑ろにしているだけなんじゃないか?と思ってしまうわけです。

正解がない「仮説」だからこそプロセスが大事なのでは?

「正しいかどうかはわからないけどその人が考える今最も確からしい答え」が仮説なんだとすると、仮説を作るという作業において価値を持つのは結論ではなく結論に至るまでのプロセスなのでは?という気になってきます。

そんな事を考えると今度は「じゃあどんな事やってある仮説なら価値があるのか?」という疑問が湧いてきます。 それをこちらの書籍を参考にポイントを考えてみます。

プロセスはセクシーか?

繰り返しですが、仮説は正しくなくて良いと思っています。 世の中正しさだけが価値ではないですし、正解か不正解かわからないこともたくさんあります。

そういう前提で仮説を作る事になったら、仮説を作るプロセスにはこだわらないとだめという気になってきます。 どうやってプロセスを作るかなど細かいポイントは本書に譲るとして、誰かが作った仮説の価値を確認したいのなら、セクシーなプロセスを通じて作られているかを確認してみたら良いんだと思います。

  1. 論点は整理されているか
  2. ファクトから示唆が抽出されているか
  3. 仮説の立案がなされているか
  4. (可能な範囲で検証) 仮説が検証されているか

仮説を作る側は価値を示すためにも、こういったことを満たすプロセスを作って進めていく必要があるんだと思いますし、価値を主張するにはそれを記録に残しておかないといけないんだろうなと思います。

複数の選択肢が出せていて、その中から選ばれているか?

上でも書きましたが、最終的な仮説を導くまでに棄却した仮説があるので、途中で発生していたアイデアはおそらく複数あるはずです。 最終的に選んだ仮説が正解であるという保証もどこにもなく、もしかしたら途中で切り捨てたアイデアが正解だったのかもしれませんし、こればっかりは誰にもわかりません。

個人的には、複数の選択肢を出せていてその中あるいはそこから派生した選択肢がちゃんと吟味されているという事実に価値があるんだと思います。 頑張ったから価値があるという話ではなく、選択肢を提示し、その中から合理的に選択するというプロセスを経ていることが重要なんだと思うと、そういった記録は整理して残しておく必要があるんでしょうね。

だれかとそれを議論した形跡があるか?

最後に、仮説の価値を確認するならその「まだ証明はしていないが、最も答えに近いと思われる答え」を出すにあたって、議論した形跡をみたら良さそうですね。

実際には、誰かと議論し、議論の中で異なる視点からの意見によってアイデアが磨き込まれていくわけです。 正解がわからないからこそ、議論を通じて意見を磨き込まれている事実も価値の源泉なんじゃないかと思うわけです。

こうした議論が仮説に対する価値の源泉となってくると考えると、地味ですがこうした記録をきちんと残していくことも重要なんでしょうね。

参考文献

下記の文献を参考にさせていただきました。

感想

以上、「正解がない「仮説」だからこそ、そこに至るまでのプロセスが大事なのでは?」と思ったので頭の整理の記事でした。 「仮説というものを軽々しく考えすぎるのはあまり良いことではないかも?」と思いますし、適当に作った仮説をベースに組織の動きまで決定してたらちょっと怖いなと思ったりもします。

...とはいうものの、時間に迫られているときもありますし、そもそも仮説という言葉がもっと軽い「予想」とか「勘」と同じ意味で使われることもあります。言葉の意味なんて時代によって変わっていくものですしね。 なので、そこまで目くじらを立てるものでもないのかもしれませんね。

「大事そうなとき・気が向いたときにプロセス重視でちゃんとやるのがよい、それ以外は気楽に捉えてればOK」ってのが自分の中の結論になりそうです。